市河文庫

沿革
柳田文庫
永田文庫
市河文庫

(THE CATALOGUE OF THE ICHIKAWA LIBRARY より)

松本信広
昭和38年8月29日

世界の言語及びその背景となっている民族文化の研究を目的として本塾語学研究所が設立されたのは昭和17年10月であり、その企画及び運営の衝に当られていた西脇順三郎先生の御推薦で市河三喜先生は創立当初から所員として協力してくだすった。たしか19年の終り頃であったと思う、西脇先生から市河三喜先生がその東洋に関する欧米学者の研究書の御蒐集を研究所に御譲り下さる御意向であると伝えられた。それで早速当時牛込山吹町にあった御宅を訪問し、その立派な書庫に案内され、広汎な蔵儲に驚くと共に今後こういう資料を譲っていただき、自由に利用できる幸福に欣喜したのである。その頃既に人手も不足していたので若い厨川文夫教授がリュックサックに背負って幾度かにわけ、これら書籍を三田まで運ぶ労苦をとられたことを忘れ得ない。昭和20年5月24日の空襲で福沢先生旧宅の中に設けられていた語学研究所は焼失してしまったが、幸い市河文庫は新潟県十日町に疎開疏開してあったので難を免れ、戦後研究所の図書資料の基幹をなしてきたが、何分にも戦禍で建物の六分通りを失った本塾のこととて大学教室の復興に手間どり、研究所の整備がいつまでも整わなかったのは、市河先生の御好意に対しても何とお詑びしてよいかわからぬ始末であった。本文庫図書の整理には厨川さんの外に藤井昇氏、鈴木孝夫氏等が相次いで関係されたが最後に研究所事務主事であった田中市郎衛門氏が献身的に之に当り、その目録を刊行することになったことは此処に心から感謝申し上げる次第である。

この文庫はヨーロッパ、中国、朝鮮、蒙古等の諸言語を網羅している稀有な蒐集であるが、日本語関係のものでは、Alcock, Aston, Batchelor, Chanmerlain, Satow 等はもとより Brown, Hepburn, Hoffmann, Liggins, Siebold 等明治初期或は江戸時代の学者の著書を集めてあるものが目を惹く。殊にパンフレット類まで丹念に蒐集され、 Pfitzmauer のものが約200冊、Leon de Rosny のものが50冊、Raoul de la Grasserie のものが25冊ばかり数えられる。フィンランドの著名な言語学者 Castren の著書も数種あり、とりわけドイツの言語学者、政治家として有名な Wilhelm von Humboldt の Ueber die Kawi-Sprache auf der Insel Java, 3vols.(1836-39) が目立っている。古い所では Calepin の Dictionarium, ( Leyden, 1585) や Duret, Thresor de l'Histoire de cest Univers ( Yverdon, 1619) があり、後者にはその日本の章に日本字の仏訳が数頁ついている。写本類の中にはオランダの東洋学者 Gustav Schlegel 及び彼に宛てた東洋学者の手紙が珍しく、シュレーゲルの有名な Uranographie chinoise に関する写本原稿、書簡類は貴重である。その外仏訳 「駿台雑誌」原稿及び Pfitzmaier 論文数種仏訳原稿、 M. Lexer の Notes on the Gothic translation of the New Testament の原稿など目をみはらせるものがある。

市河博士はこの重要な蒐集を塾に譲られ、昨秋の慶應外国語学校20周年記念式の席上の御挨拶においても御自分の魂はなかば此蔵書と共にあると云われた程であるが、此度、語学研究所が言語文化研究所として改組、新発足し、また今回市河文庫目録が刊行せられる時機に際し、私共は博士の御好意を無にせず、今後この大切な蒐儲をできるだけ役立たせ、末永く本塾の至宝として保存することを堅く誓うものである。